千葉県「長沼事件」

長沼事件とは、千葉県埴生郡長沼村(現成田市)にあった300ヘクタール程の「長沼」の漁業・採藻権、渡船営業権を巡って起こった争いである。

江戸時代、長沼村は幕府に一定の年貢を納めることで、沼の占有権を得、生活の糧のために伝統的に沼を利用してきたが、明治以降上流の村々からの要望があり、周辺村落15カ村を含んだ入会地に変更されることになった。また、渡船の営業権の独占も奪われることになり、沼によって生計を立てていた長沼村は困窮した。県庁に嘆願しても聞き入れてもらえず、手立てを失っていたところ、たまたま村代表の小川武平が『学問のすゝめ』を読んだのをきっかけとして、明治7(1874)年12月、小川らが助力を求め、福澤のもとを訪ねた。状況を知った福澤は、県令柴原和に宛て直々に手紙を出すなど県庁との交渉などに援助を惜しまず、明治9年「長沼」の5年間の有償貸与を勝ちとった。明治33年には28年にわたる争いは解決し、沼は長沼村に払い下げられ、所有権は回復した。翌年、福澤は脳血栓で倒れ、帰らぬ人となった。

謝礼を献じようとした村民に対し、福澤は所有権回復のための資金として貯蓄するよう提案した。さらに、今回の事件は村民の無学故であるとして、小学校建設のために500円を寄付し、これを元手に長沼小学校が建てられた。現在、学校跡地には長沼保育園が建ち、1室が「福澤諭吉記念子ども館」として開放されている。

参考文献
『福澤諭吉事典』/『福澤諭吉全集』第19巻/『福澤諭吉書簡集』第1巻/『福澤研究センター通信』第19号(2013年12月31日発行)/増島信吉『福澤先生と小川武平翁』小松周助・博文館、1912年

長沼村民宛福沢諭吉書簡
明治10(1877)年11月1日付
【権利回復を祝するとともに、慢心せず「勝てかぶとの緒をしめ」人びとの便利を考えることを望む】

長沼下戻百周年記念小川武平慰霊之碑

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