島根県「森鴎外」

文久2(1862)年―大正11(1922)年

■経歴

小説家。軍医。
津和野藩の典医の家に生まれ、西周の勧めで上京し東京大学医学部を卒業後、軍医となる。ドイツ留学より帰国後は評論や翻訳活動も行い、多くの小説も発表した。

明治29年慶應義塾大学部文学科卒業写真

文学部の「美学美術史学専攻」の英語表記はAesthetics and Science of Artsである。aestheticsの和訳が美学であり、古くは審美学とも訳された。美学は、美の本質や構造を研究、解明する学問であり、哲学の領域に含まれる。
義塾の美学教育は、明治25(1892)年の森鷗外(森林太郎)による「審美学」講義に始まる。美学美術史学分野における講義としては、草分け的な存在になる。講義内容はドイツの哲学者エドゥアルト・フォン・ハルトマンの思想に基づくものであった。『舞姫』『高瀬舟』などの小説で知られる鷗外だが、美学者として、ハルトマンの著作に影響を受け『審美綱領』なども著している。明治32年、鷗外は、北九州小倉の陸軍第12師団軍医部長に任命され、審美学の講義から離れるが、明治43年には義塾の大学部文学科顧問となり、永井荷風を文学科教員および創刊する『三田文学』編集主幹として招聘するなど、文学部の発展に貢献した。創刊号の執筆者には森鴎外の外、野口米次郎、木下杢太郎、三木露風、馬場孤蝶、山崎紫紅、永井荷風、黒田湖山、深川夜烏らの名がみられ、図案化された四つ葉のクローバーが3つ並んだ藤島武二による表紙絵には清新の息吹きが感じられる。

参考文献

『福澤諭吉事典』/『慶應義塾史事典』/『塾』2015年春号、『慶應義塾豆百科』

森鴎外、上田敏らを顧問に、永井荷風らを
招いて創刊した『三田文学』