鹿児島県「西郷隆盛:入社保証人」

文政10(1827)年~明治10(1877)年

■経歴

幕末維新期の政治家。

西郷が死去した直後、福澤は「丁丑公論」を記し、言論を抑圧してきた政府を厳しく批判して、「西郷の死は憐むべし、之を死地に陥れたるものは政府なり」と西郷を弁護した。

西郷隆盛肖像(国立国会図書館蔵)

文政4(1827)年、薩摩藩士西郷吉兵衛の長男として生まれた。藩主島津斉彬に見出され、側近となり、尊攘派の僧月照との心中や徳之島、沖永良部島への配流など紆余曲折を経て、元治・慶応年間に頭角を現し、江戸城無血開城の立役者となったが、遣韓使節をめぐる明治6年の政変で下野、その後西南戦争に敗れ、明治10(1877)年に鹿児島にて自刃した。

創立125年の記念事業の1つとして、昭和61年(1986)に福澤研究センターから刊行された『慶應義塾入社帳』(全5巻)は、三田の本塾に限らず、大阪や徳島の分校や、医学所や法律学校、さらに大学部、幼稚舎の入学に関する当時の記録の復刻であり、同資料からは入学者の保証人には、西郷隆盛の名を見出すことができる。

西郷と福澤諭吉は面識こそなかったが、互いに尊敬し合っていたようであり、明治4年には警察制度の創設に当たって、西郷が福澤の意見を尋ねており、5、6年頃には鹿児島の書生に慶應義塾に入学するよう勧め、7年には大山巌宛書簡でに、福澤の書をじっくり読んで目を覚ましました、と書き送っている。福澤自身、『福澤全集緒言』において、西郷は『文明論之概略』を通読し、少年子弟にこれを読むよう勧めたと語っており、実際息子西郷菊次郎も西郷は福澤の著書を愛読していたと証言している。

参考文献
『福澤諭吉事典』/『福澤諭吉全集』1・6巻/『慶應義塾入社帳』

保証人欄に「西郷吉之助」とある慶應義塾入学記録「姓名録」(慶應義塾入社帳)。
薩摩出身者に慶應義塾入学を促したといわれる西郷隆盛は、入学の際の保証人も務めた。
ここにあげたのは、明治6年4月18日に入塾した高梨仲二と深見有綱のもの。

『福澤諭吉全集緒言』草稿
「文明論之概略」の項で西郷に言及した部分