高知県「板垣退助」

天保8(1837)年~大正8(1919)年

■経歴

自由民権運動家、政治家。

明治7(1874)年に立志社を結成。教育機関として併設された立志学舎には、慶應義塾から門野幾之進や深間内基らの英学教師が派遣された。

 天保8(1837)年、土佐藩馬廻役の乾正成の長男として高知城下に生まれ、幕末期は山内容堂の御側用役などを務め活躍、慶應3(1867)年の薩土盟約締結の際には西郷隆盛と相対した。

 明治維新後は自由民権運動に身を投じ、立志社を結成。自由党総理を経て、明治24(1888)年には立憲自由党総理に就任。第2次伊藤内閣では内務大臣として入閣し、31年にも再び内相となり、大隈重信と隈板内閣を組織した。

 立志社には教育機関として立志学舎が併設され、慶應義塾から門野幾之進ら英学教師が派遣された。福澤諭吉は11年、地方自治や教育、言論活動に力を入れていた板垣を高く評価し、上京してさらに活躍するよう求める手紙を送っている(2月8日付)。

 しかし真の民権を求めていた福澤は、国会開設要求に固執する運動に苦言を呈し、一線を画すようになった。14年に福澤が記した『明治辛巳紀事』では、板垣は率直すぎて人に欺かれることが多く、大きなことは語り合えず付き合っている、と述べている。板垣は33年に政界を引退すると社会改良運動に尽力し、大正8(1919)年7月16日に死去した。

参考文献

『福澤諭吉事典』/『福澤諭吉全集』第20・21巻/『福澤諭吉書簡集』第2巻/宇田友猪著公文豪校訂『板垣退助君伝記』1~4巻(明治百年史叢書) 原書房 2009年~2010年

明治10年1月4日付板垣退助宛福澤諭吉書簡
【『分権論』の写本を贈り、世上に流布させるため協力を求める】

アメリカ軍の伝単にとりあげられた板垣退助
昭和20(1945)年2月米軍が戦意阻喪を目的として撒いたビラ。「日本の偉人よ何処に在りや」と題して、福澤と板垣が取り上げられている。