忘れられた記念日

文学部教授
柳田 利夫

文学部教授
柳田 利夫

元旦から十二月二十三日の天皇誕生日まで、法律によって定められている国民の祝日は、現在年間十五日になる。来年からは、八月十一日に「山の日」が加わるので、六月だけが日曜以外に休日のない月として取り残されてしまうことになる。そんな祝日から見放された薄幸の六月に、メディアに取り上げられることもほとんどない至って影の薄い記念日がある。一九〇八年六月十八日、日本人移住者七八一名を乗せた笠戸丸がブラジルのサントスに入港したことに因み、一九六六年総理府(現内閣府)が定めた「海外移住の日」がそれである。

戦後の食糧難、人口問題解決を目的に、五〇年代初頭から国策としての中南米諸国への海外移住が推進されていったが、六〇年代に入り高度成長を達成していったことから、「海外移住の日」が制定されたころには、経済的な理由による移住者は急速に減少しつつあった。移住関係実務を担っていた海外移住事業団も、一九七四年には国際協力事業団へと改組され、人の送出から技術の送出へという大きな政策転換もはかられた。オイルショックを乗り越えバブル経済へと突き進んでゆく中で、戦前期の海外移住の歴史は無論のこと、そう遠くはなかった戦後移住の歴史さえ、次第に人々の記憶の底へと沈んでいった。「海外移住の日」もまた、ほとんど顧みられることもなく、制定からほぼ半世紀が経過した。

一方、冷戦構造の崩壊、物理的な交通手段の発達やインターネットに象徴される情報網の拡充などに呼応して、幸せを求めて国境を越える人々の動きはいよいよ激しさを増し、世界各地で多文化共生社会の新たな可能性と同時に、様々な軋轢をも生みだしている。少子高齢化の時代を迎え、バブル期とは違った次元での深刻な労働力不足や、人口そのものの減少さえ現実の問題として懸念される現在の日本でも、これまでの様なその場しのぎの弥縫策ではなく、数世代先までを見据えた長期的なビジョンを持った腰の据わった「移民政策」を策定してゆく必要性に迫られている。

今月の「海外移住の日」に因み、多くの移住者が海外に向かって旅立っていった横浜にある「JICA横浜・海外移住資料館」を訪れてみてはどうだろう。日本人海外移住の歴史を体系的に学んでから訪れる時、大さん橋や中華街といった大勢の人で賑わう観光スポットで、移民船が横付けされ移民達が涙ながらに祖国に別れを告げている喧噪や、幕末の開港以来、中国人移住者とその子孫達が差別と偏見の中で築き上げてきた中華街の生命力を感じることができるかもしれない。真摯に過去の事実に向かい合う時に生まれる緊張感と豊かな想像力とが、未来を創造する力の源泉に繫がっているように私には思われるのだが。
(JICA横浜・海外移住資料館 http://www.jomm.jp/)

『三色旗』2015年6月号掲載

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