山口県「伊藤博文」

天保12(1841)年~明治42(1909)年

■経歴

幕末明治期の政治家。初代内閣総理大臣。
福澤によれば2人の出会いは「現に明治七、八年の頃かと覚ゆ。故大久保内務卿と今の伊藤博文氏と余と三人いずれかに会合したる」(『福澤全集緒言』『福澤諭吉著作集』第12巻p.499)ときになる。

伊藤博文肖像写真

明治13(1880)年末、福澤諭吉は伊藤博文・井上馨・大隈重信の3人の参議から国会開設の意向を打ち明けられ、そのために官報のような新聞を発行することを依頼された。福澤は「是マデノ御決意トハ露知ラザリシ」と彼らの決心を歓迎し、これを快諾して準備を進めた。
ところが、大隈が政府を罷免された翌年の明治14年の政変により、この件は一切立ち消えとなった。福澤は伊藤と井上に長文の書簡を送り、新聞発行が立ち消えとなった理由を問いただしたが、両者から返事はなかった。以後、2人とは絶交状態となった。

明治20年4月、当時内閣総理大臣だった伊藤博文よりファンシーボール(仮装舞踏会)の招待を受けるが、「家事の都合」を理由に断わっている。しかし、明治31年に福澤が開いた園遊会に伊藤が出席し、17年ぶりに2人は愉快そうに語り合ったという。その後まもなく福澤が倒れ、これが伊藤との最後の面会となった。
この間、伊藤は内閣制度の創設や憲法制定の中心的役割を果たし、明治18年年に内閣総理大臣に就任、福澤晩年に立憲政友会を結成して総裁となり、明治38年に韓国初代総監に就任するが、辞任後の明治42年10月26日、ハルピンで暗殺された。

『福澤諭吉事典』/『福澤諭吉書簡集』第3巻/『福澤諭吉展 未来をひらく』図録

伊藤博文・井上馨宛福澤諭吉書簡
明治14(1881)年10月14日付
【明治14年の政変について、説明を求める】