新潟県「長岡藩の教育」

越後国(現新潟県)長岡藩は、戊辰の北越戦争による荒廃から立ち直るために、教育による人材育成に力を入れ、慶應義塾長を務めた藤野善蔵や徳島慶應義塾校長を務めた城泉太郎、「米百俵」で著名な小林虎三郎の弟である小林雄七郎、大阪慶應義塾立ちあげに尽力した名児耶六都、後述する三島憶二郎の主君である牧野鋭橘など多くの人材を慶應義塾に送った。
明治2年(1869)5月に慶應義塾に入学した藤野は、義塾で教鞭を取った後、5年11月に長岡洋学校が開設されると、三島憶二郎の招きで英学教授として赴任した。長岡洋学校は福澤の思想に共鳴し、福澤との交際が親密であった三島が英学教育に重点を置く学校として設立に尽力した。三島は銀行や病院の設立にも奔放し、大参事として明治維新後の長岡を指導した。
藤野は学校内に住み、学生たちに大きな感化を及ぼした。しかしながら、洋学校が新潟学校の分校として官の傘下に入ることに反対し、6年11月に東京に戻り、再び慶應義塾の教壇に立ち、大阪慶應義塾に赴任した荘田平五郎の後を受けて塾長に就任。11年には再び長岡洋学校の後身である長岡学校に招聘されるが、健康上の理由により4カ月で辞任する。

参考文献
『慶應義塾史事典』/『福澤諭吉事典』

藤野善蔵肖像
弘化3(1846)年~明治18(1885)年
慶應義塾長(明治6~7年頃)、徳島慶應義塾校長、東京師範学校中学師範学科(後の高等師範学校)教員、三菱商業学校校長。明治2(1869)年5月慶應義塾入学。

明治6年2月柏崎新潟2県併合時の長岡洋学校に関する記録
(新潟県立長岡高等学校同窓会『長岡学校沿革略誌』〔翻刻〕より)