愛媛県「松山英学所」

 明治8(1875)年、愛媛県権令岩村高俊は、松山二番町に英学所を設立した。その時所長兼教頭として招かれたのは、7月に慶應義塾を卒業したばかりの草間時福(くさまときよし)であった。草間は嘉永6(1853)年5月に京都の士族の四男として生まれ、安井息軒、中村敬宇に学んだ後、明治7年4月に慶應義塾に入学した。当時は福澤諭吉が言うところの「西洋流の一手販売」(『福翁自伝』)で、慶應義塾は各地に英語教員を派遣した。弱冠22歳の草間も月給「四拾円」の破格の待遇であった。

松山英学所の開設時の生徒数は34名ほどで、草間は上級生のクラスを受け持った。そして最上級生は下級生を教育・指導する立場にあった。まさに自らが学んだ慶應義塾をモデルとして、「半学半教」を実践したのである。

その後松山英学所は、9年7月に愛媛県変則中学校(変則は訓読解意を学ぶこと)、9月に愛媛県変則北予学校、11年6月に愛媛県立松山中学校と改称されたが、草間は引き続き12年7月まで所長や校長を務めた。同校は現存の松山東高等学校につながっている。

参考文献

永江為政編『四十年前之恩師草間先生』草間先生謝恩会、1922年/『福澤諭吉事典』/『近代日本研究』第24巻(20083月刊)

草間時福(大正11年時) (『四十年前之恩師草間先生』口絵より)

松山藩立学校明教館の建物 (『四十年前之恩師草間先生』口絵より)現在は松山市立松山東高等学校

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