四月に思い出すこと

経済学部教授
松原彰子

経済学部教授
松原彰子

四月というと、学生時代の卒論テーマ発表の頃のことを思い出す。千葉県小櫃川流域で地形や地質を調べるということは決めたものの、研究の目的が漠然としていたためゼミでは防戦一方であった。それに加えて、私には技術的に不得手なことがあった。自然地理学の分野では、論文にいかに見栄えのする図を載せるかは重要である。もちろん、ただきれいな図というのではなく、論文の内容が的確に読み取れるものが求められる。今ではパソコンを使って気の利いた図を作成することが容易になったが、私の学生時代は製図用のペンによる手書きだった。同級生たちはセンスの良い図を作るために、線の太さや文字・数字の大きさ、字体などにも気を配っていたが、私の場合はそれ以前が問題だった。卒論のことはあまり思い出したくなかったが、最近、何十年ぶりかで卒論とそれに使った資料類を見る機会があり、そこで二つの発見があった。一つは、「やっぱり図が下手だ」ということだが、もう一つはデータが案外きちんと整理されていたという点だ。残念ながら、当時はそのデータから十分な考察を行うことはできなかったが、土台はしっかりしていたので少し自分を見直した。ただ、個々のデータやその整理の過程までは論文に載せないので、土台部分は表からは見えづらく評価の対象になりにくい。

地形の中にも表からは見えにくい種類のものがある。駿河湾沿いに沼津市と富士市にまたがる東西二〇キロメートル、南北二キロメートルの浮島ヶ原と呼ばれる低湿地がある。そこに雌鹿塚という標高二メートルほどの丘状の地形がある。この場所は現在の海岸からは一キロメートル以上内陸にある。ここに遺跡があることは知られていたが、その実体と地形の正体についてはよくわからないままだった。約二十五年前に雌鹿塚の大規模な遺跡発掘調査が行われ、雌鹿塚周辺の低湿地を掘り下げてみると、湿地を構成している泥炭層の下から海岸砂丘の堆積物が現れた。その地層は雌鹿塚本体に続き、その上から弥生時代の住居址が見つかった。さらに浮島ヶ原全体の地質データから、この海岸砂丘が現在の海岸線と平行するように延び低湿地の地下に埋没していることが明らかになった。今の地表からは見えない過去の砂丘の存在とそこでの人の暮らしの発見は、その後の私の研究生活の起点になった。年度が改まるこの時期には、その頃の新鮮な驚きも蘇ってくるように思う。

『三色旗』2015年4月号掲載

ナビゲーションの始まり