「勤労の義務」について考える

経済学部教授
太田 聰一

経済学部教授
太田 聰一

日本国憲法第二十七条一項は、「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」としている。これが、「国民の三大義務」のうちの一つである、勤労の義務の規定である。読者は他の二つが「教育を受けさせる義務」と「納税の義務」だということも含めて、おそらくどこかで習ったことがあるに違いない。

「勤労の義務」に話を戻すと、なぜ憲法は私達に働くことを義務づけるのだろうか? これをテーマに思考を深めてみてほしい。「義務」といっても、働いていないからといって人々は処罰を受けたりはしないし、強制的な労働が憲法の他の部分で禁じられている「第十八条」ことからしても、あくまで倫理的な規定であることがわかる。

実は、この憲法の規定を不要なものとみなす研究者もいる。その理由のひとつとして、遺産などの不労所得で暮らしている人々にとって侮蔑的だ、というものがある。また、納税の義務さえきちんと果たしているならば十分であり、勤労にも義務を求めるのは行き過ぎだという考え方もある。さらに、「勤労の義務」の規定は、旧ソ連のスターリン憲法に倣ったもので、国民を総プロレタリアート「労働者」化せよ、という社会主義の発想に近いとみなす人もいる。

しかし、別の考え方もある。多くの人々が働くのは、自分や家族の生活を支えるため、自分の能力を発揮したいため、自分の生きがいのため、といった個人的理由が多い。しかし、それぞれの人がしたいと思っているところに仕事が生じるのではなく、他の人々が求めるもの「財やサービス」を提供するところに仕事が生じるのが普通である。だから、人々がたとえ自分の生活のために仕事をしていたとしても、それは最終的に他者のためになっていることが多い。仕事のために家を建てた人は、その家に住む人にサービスを提供したことになる。比較的最近のCMのフレーズで「世界は誰かの仕事でできている」というものがあったが、誰かの仕事でできている世界で暮らしていくためのマナーとして、できるかぎり「世界作り」に自分も参加すべきだというのは、おかしくないような気もする。このように、仕事をすることが重要な社会参加であるという考え方は、勤労を義務とみなす考え方と親和的だと思う。

私は最近、学生たちに「『お金に不自由していない』という理由で働かないことについて、あなたは賛成しますか?」という問いを投げかけることが多い。皆さんの回答はどうだろうか?

『三色旗』2015年6月号掲載

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