八月のモスクワ

法学部教授
横手 慎二

法学部教授
横手 慎二

一九九〇年代初めから二〇年ほど、かなり頻繁にロシアを訪問した。ソ連崩壊後に利用が可能となった歴史文書を読むためである。八月は夏休みで、ロシアのたいていの文書館は休館だが、万事に支障なく数週間の時間をとれるのはこの時期しかなかった。それで、八月後半からロシアに滞在し、文書館が利用を許可してくれたときは、そこで仕事をし、そうでないときは市内の図書館などに通い、調べ物をしつつ文書館に入れる日を待つのである。

そういうわけで、八月末にぶらぶらとモスクワの街を見て回ることが多かった。夏休みの終わりごろのモスクワは、日本の蒸し暑さがなく、漫然と歩くのに適していた。よく行ったのは、ソ連時代に二年ほど住んだプロスペクト・ミーラという中心部から少し北にある地区である。何も特別な建物はないのだが、家族でよくミーラ通りの広い歩道を行き来したので、ここに新しく日本食を売る店がオープンしたとか、あそこにあった本屋が跡形もなくなったとか、定点観測をして歩くのが楽しいのである。実際、気が向いて脇道に入り、かつての自宅であったアパートの周辺まで来て、不意に庶民の暮らし向きの激変に気づかされたこともあった。

日本にいればとても歩く気になれないほどの距離も、こういうときは別なのである。キタイ・ゴーラドという古い町並みが残る街を一時間以上も歩いて回り、肝心の歴史図書館に入った時にはずいぶんと疲れて仕事にならなかったこともあった。この辺りは曲がりくねった道や坂道が多く、途中で古い教会の丸屋根が趣よく姿を現したりするので、ついつい回り道をしたくなった。図書館で受け取ったコピーを読むためにカフェーに入って時間を過ごすのも、昔からこの辺では難しくなかった。そこから地下鉄で二駅ほど離れているクズネツキー・モストという界隈も、ソ連時代にはブキニストと呼ばれる古本屋が幾つもあって、モスクワっ子に紛れて歩くのが楽しい所だった。しかし、ソ連からロシアになると、行くたびに居心地の良かった店が消えていた。

Kさんという知り合いのロシア人と神田を一緒に歩いたとき、日本は歴史を残そうとしているので、羨ましいと感想を漏らしたことがあった。東京生まれの私は逆に感じていたので、Kさんの言葉はモスクワの慌ただしい変化を表したものとして心に残っている。振り返れば、街の景観と同様にロシアは大きく変わった。この頃、ソ連時代が戻ったようだなどという言葉を聞くと、生活の変貌にも注意を向けて欲しいと言いたくなる。

『三色旗』2015年8月号掲載

ナビゲーションの始まり