貴重書を使った授業
経済学部教授
穂刈 亨
昨年の四月から、『国富論』で有名なアダム・スミスの『道徳感情論』を原書で読む、という授業(通学課程)を始めました。参加している学生に一文ずつ読んで訳してもらい、分かりにくいところは全員で議論するという授業です。この本の初版は一七五九年でして、慶應義塾大学の図書館は初版本を数冊所蔵しており、毎回というわけにはいかないのですが、学期中の何回かは、図書館の「貴重書室」という部屋で、この初版本を実際に使って授業をしています。ただ、貴重書に触れることのできるのは教員のみで、学生は触れてはいけないという決まりがあり、学生が順番に台の上に置かれた本の前に行って読んで訳していき、頁の終わりにきた時には、横で控えていた私が、ピアノの演奏中に楽譜をめくる係の人さながらに、本の頁をめくっています。そうした面倒なことはあるものの、やはり、二五〇年以上前に出版された本の実物を読むというのはなかなかできない経験であり、学生にも好評です。
この本の中で、是非とも読んでもらいたいのは、人間はこれほどまでに利己的であるのかということをうまく説明している以下の部分です。
「ここで、あの清という大帝国が、幾千万の住人とともに、地震で一瞬のうちに消えたとしよう。そして、ヨーロッパに住んでいて中国とは何の関係も持たない一人の慈悲深い男が、この災厄の知らせを受け取ってどう感じるかを想像してみよう。思うに彼は、何よりもまず、不幸に見舞われた人々に深い哀悼の意を捧げるだろう。そして、人生の無常や、かくも一瞬で灰燼に帰す人の営みの虚しさについて、陰鬱な省察を加えるだろう。考え深い人なら、この災厄がヨーロッパの商業ひいては全世界の貿易や取引にどのような影響をもたらすか、考察するかもしれない。しかし念入りな検討が終わり、思いやり深い感情を余すところなく表現してしまったら、何事も起らなかったかのように、いつも通り落ち着き払って仕事に戻るだろう。あるいは娯楽や休息や気分転換をするだろう。これに対して自分の身に起きたごく些細な災難も、心底彼を困らせたにちがいない。たとえば明日自分の小指を切られることになったら、今晩は眠れないだろう。だがたとえ一億人に破滅が訪れるとしても、会ったこともない人々であれば、安心して高いびきをかくだろう。これほど大勢の人の破滅といえども、自分自身のささやかな不幸に比べたら、あきらかに興味を引かない出来事なのである。」
(『道徳感情論』村井章子・北川知子訳、日経BP社、二〇一四年、三一二頁) この部分に続いてスミスは「人間というものはこれほど利己的であるのに、自分の小指を守るために大勢の人の命を犠牲にすることはないのは何故か」ということを自分の理論を使って説明しているのですが、どのような説明になるのかについては『道徳感情論』を読んでいただけたらと思います。(日本語訳もたくさん出ています。)
『三色旗』2016年4月号掲載