教員紹介 樋口美雄

商学部教授
樋口 美雄

商学部教授
樋口 美雄

私の専門は計量経済学です。計量経済学といっても、計量分析の手法やデータ開発などいろいろな研究テーマがありますが、私は主に労働に関する実証経済学を専門に行ってきました。そこでは理論仮説を統計データに基づき検証し、分析結果から政策を提言していくということを行ってきました。中でも雇用問題に関心があります。女性や若者、高齢者の雇用問題や失業問題、さらには賃金構造や長時間労働、所得格差や非正規雇用、そして人口の少子高齢化や地域格差など、幅広い雇用問題に取り組んできました。また最近では、企業内部における賃金や雇用制度、人事評価などが人材活用や人々の働き方・暮らし、そしてキャリア形成、さらには労働者の生産性、ひいては社会の持続可能性にどう影響しているか、またそれが技術進歩や経済のグローバル化、少子高齢化といった企業や労働者の置かれた環境や雇用法制とどう関連しているかに関心を持っています。こうした課題について理論仮説を立て、データで検証し、最近の流行の言葉を使えば、「Evidence-BasedPolicy(客観的証拠に基づく政策)」を提言することを目指してきました。

実証研究でひとつのネックになるのが、理論仮説の検証に適した統計データを得ることです。社会科学の場合、自然科学と違って、自分たちで理論仮説に基づいて統御実験を行い、これによってデータを得て、検証を行うことが難しい。経済学では、従来、そうしたデータを政府の調査した公的統計に求めることが多かった。たとえば一国全体の失業率や物価、平均賃金など、政府が調査し、それを合計した「集計データ」が使われてきました。しかしこうしたデータでは、どのような特性を持っている人が失業しやすいか、あるいはどのような人の賃金が高いかはわからない。そこで研究が進むにつれ、「集計データ」の代わりに、その基になっている個々人の特性や就業状態、賃金を調べた「ミクロデータ」が使われるようになった。日本ではまだ数は少ないですが、近年、ようやくこうした「ミクロデータ」も研究者が申請すれば、行政の承認を得て、二次的利用として使用可能になりつつあります。

しかしこうした「ミクロデータ」は、一時点のデータであって、同じ人を追跡しているわけではありませんから、個々人の変化の様子はわからない。どのような人の賃金が上がり、所得が増え、逆に減っているのか、あるいは景気が変動した場合、どのような人が失業者になり、非正規労働者になり、その後、正規に転換しているのか、といった変化がわからない。政策の効果を議論するには、個々人の変化を追跡したデータが有効ですが、わが国では、同じ人を長期にわたり追跡調査した「ミクロ・パネルデータ」が従来、存在しなかった。そこで慶應義塾大学では、多くの先生方が協力して、二〇〇四年に「パネルデータ設計解析センター」を立ち上げ、日本全国から約六〇〇〇人を無作為に抽出し、個人の属性や就業状態、所得の変化などについて追跡調査する「日本家計パネル調査」を開始しました。現在も調査は続けられています。集められたデータは研究者であれば、国の内外を問わず誰もが利用できるように公開されています。

こうしたパネルデータを使うことによって、近年、わが国における貧困率の上昇は、一時的貧困者の増加とともに、長期にわたって続く慢性的貧困者が増えていることがわかりました。さらには貧困の理由を調べると、欧州に比べ、失業者や無業者よりも、働いているが非正規雇用のために給与が低く、貧困になっている人が多く、しかも非正規は若者だけではなく、中高年男性においても増加している。税制による政府の再分配機能は総じて弱く、年金などの社会保障制度によって再分配は行われていることがわかる。非正規労働者の賃金引上げには、法定最低賃金の引き上げが有効であり、これを実際に行った結果を見ても、雇用は有意に減らされないという分析結果が得られました。さらに非正規から正規への転換を促進するためには、その人の自己啓発を促進し、能力開発を支援することが有効であるとの検証結果が得られ、これらについて具体的政策を提言してきました。

最近では企業におけるワーク・ライフ・バランスの推進は個々人の離職率を引き下げ、キャリア形成の可能性を高めると同時に、企業の生産性を高め、業績を向上させることにもつながる投資行動であり、政府はこれを支援する政策により、人口減少下における社会の持続可能性を高めることが示されています。

現在、通信教育課程では講義は行っていませんが、何人かの学生について、卒業論文の指導を行ってきました。私の研究テーマからして、企業の人事部に勤めている人や女性就業に関心を持っている人が多かったと思います。先日も、あるところで企業の人事担当者を対象にした講演をしましたら、終了後、一人の卒業生が駆け寄ってきて、卒論で書いた「ワーク・ライフ・バランスの効果分析」を、いまは企業の中で実践していると言ってくれました。何となくうれしくなった次第です。

『三色旗』2016年4月号掲載

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