教員紹介 ミヤン・マルティン、 アルベルト

経済学部専任講師
ミヤン・マルティン、 アルベルト

経済学部専任講師
ミヤン・マルティン、 アルベルト

 私の専門分野は翻訳研究と日本研究です。具体的には、日本近現代における翻訳史と翻訳理論、そして、明治初期の教育史です。この二つの分野を繫げるのは、「明治初期の教育制度における翻訳教科書」という研究テーマです。

 このような研究に入ったキッカケはいくつかあるのですが、どれも自分の少年時代に遡ります。まず一つに、私がバイリンガル(二言語併用)の地域に生まれ育ったことです。スペインのバレアレス諸島自治州マヨルカ島生まれの私は、家庭の言語が他の地方出身の両親が話すスペイン語だったのですが、学校や街中などで、毎日のように土地の言語であるカタルーニャ語にも触れていました。スペイン語とカタルーニャ語はどれも俗ラテン語に起源をもつ「ロマンス語」であるために、お互いに勉強しなくても七〜八割ぐらい通じるものですが、この二言語で教育を受け、そしてこの二言語で生活を送っていた中で、世界中のほかの言語への好奇心が湧いてきて、英語やフランス語の勉強に熱心に取り組むことになりました。同時に日本語にも興味をもつようになったのですが、スペインの中学校や高校では日本語の勉強はできません。インターネットもあまり普及していなかった時代で、私の独習方法は、とりあえず日本から直輸入されたマンガや雑誌を手に入れたり、吹替版でテレビ放映されている日本のアニメを音声切替機能で日本語で観たりして、まず、口語的な日本語の音やリズムに慣れながら、平仮名と片仮名を覚えることでした。

 このような独習方法は、バルセロナの大学に行くまで数年続きましたが、その前の中学生のときに私にとって決定的な出来事が起こりました。それは、カタルーニャ語吹替版で何度も再放送され、私が毎回観ていた『Dr.スランプアラレちゃん』と関係しています。第一九〇話「やった!クイズで100万えん」の中で、「一万札に描かれている人はだれでしょう?」という質問に対して、「国王」が正解になっていました。日本には国王がいないはずなので、これはおそらく当時の一万ペセタの紙幣に描かれていた「スペイン国王」を念頭に置いた「意訳」だったのでしょう。それに気づいた私は「翻訳行為」というものに目覚め始め、日本語の「原文」が気になってしかたがなくなりました。それから数年後のことです。別のテレビ局の吹替版で同じ話を観る機会があり、今回の訳では「ユキチ・フクザワ」が正解でした。ヨーロッパ文化しか知らない高校生の私は「これはきっとエンペラーの名前だ!」と思ったのですが、自分の部屋にあったフランス系の百科事典で福澤諭吉を調べてみて、その正体を知って驚きました。このDr.スランプ×福澤諭吉エピソードが、私にとっての翻訳理論と日本研究への出発点であり、人生を変えるほどのインパクトを与えてくれました。

 翻訳理論・翻訳史というのは特定の専攻分野ですが、他の分野に携わっている者でも翻訳について学ぶ価値があると思います。少しでも興味があれば、最初の一歩として安西徹雄・井上健・小林章夫編『翻訳を学ぶ人のために』(世界思想社)を繙いてみてください。理論と実践の諸要素を網羅している最適の入門書です。次に、翻訳研究の新しいアプローチを扱ったものとして、藤濤文子『翻訳行為と異文化間コミュニケーション:機能主義的翻訳理論の諸相』(松籟社)を挙げておきます。具体例で読める説得力のある研究書です。さらに、英語で翻訳理論の勉強に挑戦したい人には、基本の基本を教えてくれるSusan Bassnettの正統派入門書Translation Studiesを薦めます。

 翻訳行為が社会変化に莫大な影響をもたらしたのは、日本では明治時代だとよく知られています。その中で教育の分野に目を向けると、日本初の近代的な教育制度として設けられた「学制」(一八七二〜一八七九)のもとで、各分野において欧米の先進国から日本に導入された教科書が目立ちます。慶應義塾をはじめ日本各所で原文のままで読まれたものが多かったのですが、小学校などで使われたものはもちろん日本語に訳されたものでした。それらが「翻訳教科書」です。私はこれまで特に、米国の牧師ウェーランドが著したElements of Moral Science(一八三五)と、福澤諭吉の門下生・阿部泰蔵がその訳書として作成した『修身論』(一八七四)について研究してきました。原書はキリスト教的思想に基づく近代的社会制度・経済制度などを米国の大学生に紹介するものですが、訳書はキリスト教への言及をほとんど残さずに同制度を日本の小学生に教えるものとなっています。原書から訳書への翻訳プロセス、これを可能にした歴史的社会的背景、そして日本国民の啓蒙を広めるのに貢献した『修身論』、この教科書をもたらした「翻訳行為」について調べ、翻訳と教育、翻訳と歴史について考察しています。日本の近代化と翻訳の関係については、丸山真男・加藤周一『翻訳と日本の近代』(岩波新書)が参考になります。なお、この研究分野の第一人者である柳父章の作品ならどれもお薦めですが、具体的な訳語(「社会」、「恋愛」、「権利」、「自由」など)について学べる『翻訳語成立事情』(岩波新書)が、数回に分けて読みやすく、文系の人間にとっては一般教養として欠かせないものです。

『三色旗』2016年8月号掲載

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