教員紹介 大屋雄裕

法学部教授
大屋 雄裕

法学部教授
大屋 雄裕

 法律学の科目は、刑法・民法など既存の法の解釈を扱う実定法学と、広く法や法に関わる社会現象を研究対象とする基礎法学に大別されます。私の専門分野は、後者の中でも理論的・哲学的手法を用いるもので、法理学・法哲学と呼ばれています。かつては、このうち現実の法現象を前提としてそのよりよい説明を与えようとする英米的傾向が法理学、哲学の理論的成果を枠組にしてあるべき法・権利のあり方を論じる大陸的傾向が法哲学と呼ばれたのですが、現在ではそのような違いも縮小し、ほぼ同じ意味で使われます(本学でも通学課程は法理学・通信課程は法哲学ですが、どちらも担当者は私で、内容も統一される予定です)。法や、そこで用いられるさまざまな概念(たとえば権利・自由・正義など)が何を意味しているのか、どのように理解すべきかを検討し、それに基づいてあるべき法や社会のあり方を考えるのがそのテーマだと言ってよいでしょう。

 なかでも近年の私は、情報技術の発展やそれがもたらす社会変化によって法・政治がどのように変動するかということを主な研究関心にしています。たとえば、自由とは他者によって行動が制約されていないことだと多くの論者が考えてきました。なので、我々が空を飛べないという自然の制約は自由の侵害ではありません。しかし誰かが作ったプログラムによってインターネット上で我々が見ることのできる情報が自動的に制約されているとしたらどうでしょうか。我々は一方でそれを、プログラムの製作者による自由の制約だと言いたくなるでしょう。しかし伝統的な制約と違い我々にはその存在に気づくチャンスすらないかもしれず、だとすれば反発や抵抗もできないということになりそうです。それは、我々にとって所与なので反発しても意味がない自然の制約と、どのように違うのでしょうか(このような問題を扱ったのが『自由か、さもなくば幸福か?』〔筑摩選書、二〇一四〕になります)。

 あるいはそのプログラム自体が人工知能で動作しており、設計者の意図を超えた学習により進化しているとします(ディープ・ラーニングと呼ばれる技術は、製作者の明示的な予想を超えるこのような変化を可能にしました)。このとき、我々の自由を制約しているのは誰なのでしょうか。予想していなかったとしても制約が現実に生じた以上は、プログラムの製作者がいかなる結果に対しても責任を負うべきなのでしょうか。それとも、人工知能をある種の法的主体として認め、それ自身に刑事も含めた責任を負わせることを考えるべきなのでしょうか。その場合、世界の権利の主体であるヒトと客体であるモノに分割してきた従来の法制度の基盤は、そのままでいられるのでしょうか。

 この例に示されているように、法哲学が扱う対象は必ずしも現存する法ではなく、むしろ社会の変化に応じてあるべき法の姿です。このため、その検討枠組となったり議論を支えるための知見、具体的には哲学・認知科学やさまざまな社会理論を積極的に吸収することが、学修にあたっては求められます。他方、現実の法がどのように動作しているかという正確な認識抜きにあるべき姿を論じることも無意味ですから、実定法学に関する学修と理解も必要になります。通信課程においても、このようなバランスを意識した幅広い学修が求められることを意識してください。

 また、哲学が独断と異なるのは、従来からの見解と自己の主張を常に照らし合わせながら正当化していくプロセスにあります。これまでの多様な考え方を正確に、その最善の意味において捉えたうえで、なお不足するものを積み上げていくというのが思想形成のプロセスですから、いわば過去の作品との絶えざる誠実な対話が必要となります。単に自分の言いたいことを書き散らすのではなく、過去の知的営為に敬意を払いつつ摂取する姿勢を忘れないでください。

 そのための学修方法としては、まず信頼すべき教科書を(あまり面白くはないですが)通読し、そのなかで賛否を問わず自分が引っかかりを覚える見解や主張について、一般向けの書籍から関連する論文・研究書、原典を含めて詳しく読んでいくという手法が望ましいでしょう(近年の研究成果を反映したスタンダードな教科書として、手前味噌ですが、瀧川・宇佐美・大屋『法哲学』〔有斐閣、二〇一四〕を紹介しておきます)。

 思想は常に流れのなかで・ある時代的制約のもとに形成されるものです。その経緯を理解し、自分の頭のなかにさまざまな論者の主張を位置付ける座標を作ることから始めてみてください。答案や卒論指導で皆さんの知的成果に触れられることを楽しみにしています。

『三色旗』2016年8月号掲載

ナビゲーションの始まり