京都府「京都慶應義塾跡」

京都市のほぼまんなか、上京区下立売通新町西入ル薮ノ内町にある京都府庁は、往年の京都守護職の屋敷跡にあたる。当時の守衛所のかげになる、奥まったところ(現正門内)に、「独立自尊」の4文字が横書きに大きく刻まれた記念碑がある。かつてこの場所に京都慶應義塾のあったことを伝えるもので、「独立自尊」の4文字は福澤諭吉の筆蹟をそのまま拡大して碑面にあらわし、下に小さく「明治七年」、さらに最下段にそれよりすこし大き目に「京都慶應義塾跡」と、ともに建碑当時の塾長林毅陸(きろく)の揮毫によって記してある。両側面にはペンのしるしを浮彫にし、背面にはやはり林の撰文で青銅板にしたためられた、下記の碑誌がはめこまれている。
「此所は明治七年京都慶應義塾の在りたる故跡なり。当時の京都府知事槇村正直
の希望に依り福澤諭吉先生之を設立し、基高弟荘田平五郎専ら経営の任に当り他の講
師等と共に英学を教授したり。其の存続は約一年間に止まりしも、文化発達の歴史上
之を堙滅に帰せしむるに忍びず、乃ち碑を建てて其地点を表示するものなり
昭和七年十一月廿七日 京都慶應倶楽部建之」とある。
福澤諭吉は、府政を担当していた知人槇村正直の要請で、明治7(1874)年2月からおよそ1年間、京都に分校を設立した。開業時に作成された『京都慶應義塾之記』によると、京都慶應義塾には英書・洋算・訳書の3類が設けられ、場所は旧京都守護職邸内の京都中学校教場の一角を間借りした。
しかし、大阪慶應義塾同様、費用や手間、教員の問題があり、加えて京都中学校との確執もあったようで、十分に学生を集めることができず、7月頃にはやくも存廃を検討している。結局約1年で廃校に至り、入学者の記録類は残っていない。

参考文献
『福澤諭吉事典』/『慶應義塾豆百科』/『三田評論』2007年2月号

京都慶應義塾記念碑

「京都慶應義塾之記」明治7(1874)年

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