大阪府「大阪慶應義塾」

福澤諭吉が築地鉄砲洲に蘭学塾を開いてから15年。世は幕末から明治に移り、慶應義塾は洋学を志す者がこぞって入学を望むほどの人気であった。そこで慶應義塾は、東京に出て来られない人々の意欲に応えるため、地方に分校を設置する。その第1号が明治6(1873)年11月に開設した大阪慶應義塾であった。
英文学、算術、訳書の3学科を置き、荘田平五郎、名児耶六都(なごやむつ)、岩田蕃らが交代で英書、訳書、洋算、和算の出張授業にあたった。現存の入学記録である入社帳(「大阪慶應義塾入社録」)によると、英書科に75名、訳書科に11名、計86名の生徒を大阪慶應義塾は育成したことになるが、大阪慶應義塾は2年足らずで閉校。『慶應義塾学報』第41号(明治34年6月刊)掲載の懐旧談によれば、「東京大阪の交通稍便なるに従ひ、郷里より大阪に出づる学生は、其費用東京に来学すると左程の相違なきが為め、追々本塾に入るもの多く」と、設立当初の目的が急速に失われたことが記されている。閉校後、徳島慶應義塾に引きつがれた。
現在大阪には、慶應義塾の関西における拠点として、大阪シティキャンパスが置かれている。

参考文献
『塾』2008年AUTUMN(No.260)/『福澤諭吉事典』/『福澤諭吉歴史散歩』

大阪慶應義塾跡記念碑

「大阪慶應義塾開業報告」

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