徳島県「徳島慶應義塾跡記念碑」

徳島慶應義塾は、明治8(1875)年7月から翌9年11月までの1年あまり、徳島県に設けられていた義塾の分校である。
明治6年11月、慶應義塾は関西における分校として、大阪に大阪慶應義塾を設立したが、2年後の明治8年7月には、閉鎖することとなった。この閉鎖に際し、徳島の有力者たちの要望と援助があり、大阪慶應義塾をそのまま引き継ぐ形で徳島慶應義塾を開校した。
分校設立願によれば、英書・訳書・洋算の3類が設けられた。入学の記録である入社帳に記載されている入学者は49名(うち40名が大阪からの移転組で、徳島慶應義塾の入学者は9名にすぎない)、ただし学んだとされる人物で記載のない人物もあるため、確定はできない。校長は大阪慶應義塾から引き続き矢野文雄で、明治9年3月になると城泉太郎が赴任したが、徳島慶應義塾も短命で、同年11月に廃校となった。
『独立自尊』の文字が刻まれた徳島慶應義塾跡記念碑は、平成13(2001)年4月、設立年にちなんだ高さ1875mmの「人の字」を表すモニュメント石塔と共に、福澤諭吉没後百年を機に徳島県の卒業生組織である徳島慶應倶楽部が建立した。徳島慶應義塾のあった旧藩主蜂須賀家の「東御殿」の現在地は確定しておらず、また当初碑を建てた場所は所有者が次々と変わったため、徳島慶應倶楽部が将来のことを考えて移設を計画、平成21年7月に徳島県庁内に移設された。

参考文献
『慶應義塾豆百科』/『福澤諭吉事典』/『三田評論』2007年2月号

徳島慶應義塾跡記念碑

大阪より移転時の校長矢野文雄

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