大分県「福澤旧居」

福澤諭吉は大阪の中津藩屋敷(現大阪市福島区)で生まれ、天保7(1836)年6月、1歳半のとき父百助が亡くなり、母、兄、姉3人と中津の福澤実家に戻った。実家は15年もの留守の間、三度も山国川の氾濫による被害を受け荒れ放題で、近所では子どもたちを近寄らせないよう「血槍屋敷」とあだ名までされていたという。初めに6人で住んだ家は現存しないが、明治10(1877)年9月24日に、福澤が自らの記憶をもとに書き留めた見取図が残されている。間口二間半(約4.5m)奥行き15間(約27m)で、八畳が一室、三畳余が二室、三畳が一室、天井裏が二階部分になって物置になっている。やがて手狭になり、諭吉が16,17歳のときに、隣接する母の実家の橋本家を購入して移った。
旧橋本家は、建坪31坪(約102㎡)で、九畳が一室、六畳が二室、四畳半が一室に土間、玄関、納戸などがあり、外には二階建ての土蔵があった。この家は中津市留守居町に現存し、昭和43(1968)年発足した財団法人福澤旧邸保存会が管理して、最初の福澤家の跡地と合わせて、「福澤旧居」として国の史跡に指定されている。62年から平成2(1990)年にかけて行われた解体修理の際に、建築時になされた墨書銘が発見され、享和3(1803)年の建築であることが判明した。

参考文献
『福澤諭吉事典』/『福澤諭吉歴史散歩』/『慶應義塾豆百科』

福澤旧居(大分県中津市)

帰郷後最初に住んだ旧宅平面図(福澤自筆)

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