三重県「門野幾之進」

教頭に就任した頃。中央の洋装の人物が福澤先生。その右隣、長髪の人物が門野幾之進。

安政3(1856)年~昭和13(1938)年

経歴

慶応義塾教員・副社頭。千代田生命保険相互会社創立者。貴族院議員。明治2年慶應義塾入塾。明治34年副社頭。

門野幾之進は安政3(1856)年、現在の三重県鳥羽市で生まれた。明治2(1869)年、上京し、藩の貢進生(公費生)として慶應義塾に入る。若年ながらその能力と勉学への努力は抜きんでており、わずか2年後には弱冠15歳で英語教師として他の塾生を指導するようになる。
福澤諭吉からの信頼も厚く、その後、首席教員を経て明治16年には27歳の若さで教頭に就任。特に英語読解力に優れていたことから「読み門野」と称えられ、いずれも塾長を務めた芦野巻蔵、濱野定四郎と共に「塾の三野先生」と塾生たちから慕われた。
 明治34年には福澤先生の死去を受け、義塾副社頭に就任。翌年には教頭職を辞して教務の第一線から退き、実業界に転じたが、明治40年まで副社頭の地位にあり、以後も長く理事や、評議員を務めた。
 実業界での活躍は、明治37年に千代田生命保険相互会社を創立して社長に就任したのを皮切りに、第一機関汽罐保険、日本徴兵保険、千代田火災保険、千歳火災海上保険を次々に創立。また、昭和3(1928)年には、苦境に陥った時事新報社の会長に就任し、私財を投じて再建に力を尽くした。生家跡は門野幾之進記念館となっており、小泉信三の筆に成る生誕碑がある。

参考文献
『福澤諭吉事典』/『慶應義塾史事典』/『塾』2013年夏号)

門野幾之進記念館
三重県鳥羽市鳥羽1-10-48
入館無料 年中無休 9:00~16:00

ナビゲーションの始まり