奈良県「奈良旅行記」
明治22(1889)年9月16日から10月5日まで、福澤諭吉は家族12人(福澤、妻錦、長男一太郎、一太郎妻かつ、長女中村里、孫中村愛作、二女房、三女俊、四女滝、五女光、三男三八、四男大四郎)のほか、福澤家で働く人々や出入りの植木職人までも同行し、総勢約20人で京阪・山陽の旅に出かけた。その頃多忙を極めていた福澤が、名所旧跡を眺めながらのんびりくつろぎ、ふだんできない家族サービスをし、特に神戸でひとり生活している二男捨次郎(山陽鉄道会社勤務)と団欒のひとときを楽しむことが目的であった。
当初はもっと早く東京を出発する予定であったが、雨天が続きなかなか出発できなかった。福澤は江戸の美人(妻と娘たち)が西に出かけるので、東海の竜神がやきもちを焼いているという意味の漢詩まで作っている。
この旅行は、福澤による詳細な道中日記が残っており、和気あいあいと観光地をめぐる様子をうかがい知ることができる。まだ幼い子のことを考えて、後日の語り草のために記録したといわれる。奈良では法隆寺、春日神社、東大寺、興福寺をまわり、東大寺の大仏を見て「大仏の大なるは聞いたよりも思ふたよりも大にして、鎌倉の大仏などは赤んぼふに異らず」と書き留めている。
参考文献
『福澤諭吉事典』/『福澤諭吉書簡集』第8巻
『道中日記』
「江戸美人心匠清 軽装探勝洛陽城 却逢東海竜王怒 妬雨嫉風妨此行」(『道中日記』より)