和歌山県「紀州塾」
紀州藩から慶應義塾への入門者は、武蔵国に次ぐ多さで、中津、長岡と共に義塾の「三藩」と言われていた。中津藩の中屋敷内に塾舎があった鉄砲洲時代には、紀州藩がその費用を負担して、紀州藩出身者の寄宿のための「紀州塾」が置かれていたほどである。当時は慶應義塾も洋学塾としての評判が高まり、入門者が増加して塾舎に収容しきれずにいた。
また、紀州出身者には、慶應義塾医学所の校長を務めた松山棟庵、初代幼稚舎長の和田義郎、大学部開設に尽力した塾長・小泉信吉、福澤没後の義塾の発展に貢献した塾長・鎌田栄吉など、義塾の歴史において重要な役割を果たした人が多い。
入社帳を見ると、慶應2(1866)年11月には、前述の小泉信吉、和田義郎をはじめとして、草郷清四郎、小川駒橘、小杉恒太郎ら紀州から9人が、入塾している。和歌山藩には、適塾出身者の山口良蔵と池田良輔が藩外から雇われ、洋学の教育や藩の対外的な仕事にあたっていた。更に藩政改革の中心には、同藩出身で適塾に学んだ塩路嘉一郎もいた。紀州からの多くの入門者があった背景には、これらの適塾同窓のつながりもあったに違いない。
参考文献
『慶應義塾史事典』/『三田評論』2013年6月号/『塾』1997年SEPTEMBER(No.207)
当時の塾生の記憶に基づく築地鉄砲洲の奥平家中屋敷平面図。
塾舎(中央)は「先生家」「本塾」とある。長屋1棟に加え、「紀州塾」の別棟もあった。
慶応2(1866)年11月28日の入学記録(慶應義塾入社帳)
紀州藩からの入門者たちの名前が見える