宮崎県「亮天社」

 明治5(1872)年の学制布告による藩校廃止に際し、延岡藩士原時行は、同志と共に苦心して資金を集め、私学校延岡社学を建て、自ら教壇に立って唯一の中学校として人材を育てた。

 この亮天社設立に出資したのは、延岡藩最後の藩主であった内藤政挙である。鉱山や電気、植林事業にも尽力しその功績から「延岡の父」と呼ばれている内藤は、明治5年8月に慶應義塾に入学した(明治23年特選塾員)。義塾から亮天社に四屋純三郎、池内源太郎、藤田一松、大島雅太郎等を教員として招聘した。明治28年10月15日に開かれた評議員会では、「慶應義塾ト宮崎県延岡町亮天社学校トノ間ニ契約ヲ結ビ同校々長兼教師ヲ本塾教員中ヨリ二年交代テ以テ派遣スルヿ(コト)」、そして教員の給料や往復の交通費について報告されている。義塾図書館初代館長の田中一貞も教鞭を取った。また、多くの旧藩士を義塾で学ばせてもいる。

 しかしながら、亮天社は32年、県立延岡中学校設立と共に廃校となった。

参考文献

『福澤諭吉事典』/『慶應義塾図書館史』/『慶應義塾百年史』別巻大学編/富永壽夫『亮天社の概況と周辺』(亮天社出版委員会 非売品)

内藤政挙肖像写真

亮天社廃校記念写真(明治36年3月5日 『亮天社の概況と周辺』より)

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