山形県「開田記念碑」

 

明治30(1897)年、慶應義塾出身の伊藤宜七(旧姓:工藤)が中心となり、山口村(現在の山形県天童市山口)の開田を記念し建設された石碑。碑文は福澤諭吉が考案した。

水田に不向きな土地にあった山口村では、近世以来、畑作が主として行われていた。しかし、その収穫高は低く、村民は日々の食料にも事欠く有様だった。

その状況を打開すべく立ち上がったのが当地の名望家伊藤家(当主は義左衛門を襲名)である。近世後期以降、同家当主達は私財を費やし土地改良に励んだ。なかでも、明治23年の慶應義塾卒業後、同家に養子入りした伊藤宜七の活躍は目覚ましく、同人が導入した電力モーターによる地下水の揚水成功以降、同地は安定した水田耕作地へ生まれ変わった。

開田記念碑は、これら長きに渡る土地改良の歴史を後世に遺すべく、宜七が中心となり建設された。宜七からの碑文考案依頼を福澤が受諾した理由は、慶應義塾在籍時に養子入りを打診するほど、才能豊かな宜七を寵愛していたためといえる。なお、宜七は福澤に依頼した際、碑文の内容は、伊藤家顕彰ではなく、改良された地を再び荒地に戻すことがなきよう村民を戒めるものとなるよう要望している。この要望に福澤は応え、四度の推敲を重ね碑文を完成させた。その碑文を刻む「山形県北村山郡山口村開田記念碑」は明治30年に完成し、現在も困難だった土地改良の歴史を語り続けている。

参考文献

『福澤諭吉全集』第19巻/『慶應義塾入社帳』第3巻/伊藤義左衛門『雪間の草』(発行伊藤義左衛門、1986年)/『天童市史別巻下 文化・生活篇』(天童市史編さん委員会、天童市、1984年)/長南伸治「「山形県北村山郡山口村開田記念碑」碑文作成の経緯―福澤諭吉と伊藤宜七」『近代日本研究』23巻(慶應義塾福澤研究センター、2006年)

福澤諭吉の撰文による開田記念碑

開田記念碑周辺(山形県天童市山口)

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