滋賀県「塚本定次」

文政9(1826)年~明治38(1905)年

経歴

塚本定次こと2代目塚本定右衛門は、江戸時代から明治初期にかけて、日本全国で活躍した近江商人(近世から明治にかけて主として現代の商社機能といえる「諸国産物廻し」をして活躍した滋賀県の湖東中心の商人群)の代表的な1人である。幕末から明治の激動期の中で事業を発展させた。

操業甚だ難し守成又易からず

『貞観政要』(唐の太宗と群臣との政治の得失に関する問答を集録した書)を引例にした福澤諭吉先生の塚本家法への意見の返書である。

一、営業は信用を重んじ、確実を旨とし、時勢の変遷、理財の得失を計り弛緩することあるべしと(イエド)(イヤシク)も浮利に(ハシラ)す軽進せず・・

と三ヶ条に(ワタ)り塚本家々法を述べ、日付は明治28年11月20日となっている。

 二人の出会いについて、先生からの来翰の一部をまとめた巻子「雪池福沢先生書翰」の緒には、「初めて先生にお目見得する。先生四十四才定次五十六才」と記している。その後は終生知遇を享けたものと考えられ、一方先生も近江商人の思考、又定次の人となりに興味を抱かれたようである。書翰に付された最晩年の写真(明治33年)には、自署があり、本文は飯田三次代筆となっている。さらに定次の添書に「先生絶筆なり翌とし二月にご病死御年六十八才」と記している。これを見ると幾星霜四分の一世紀の交わりであったことが考えられる。

 この巻子を辿ると、先生の様々なお心づかいが感じられる。たとえばそのひとつは、定次嫡子定治郎(三代目定右衛門)が一族の若者と福沢邸を訪れた際に、「子息定治郎君は怜悧と思われるが華奢な体と見受ける。これで泥棒などの災難に防ぐことは出来ぬ。幸いこちらは剣道なども盛んであり稽古に通われたら如何と・・」と述べている。誠に文武両道の先生の面目躍如と拝せられる。

 又定次の妹塚本さとは、夫を支え塚本一族の陰の中心となっていたが、77才になった折に自分の経験を踏まえ、商人の妻に教育は必要とて学校(淡海女子実務学校)3を女子教育の先駆者、下田歌子、嘉悦孝子など多くの人の支援をうけて創立した。さと自身は13才まで寺子屋で学んだが、以降は独学で数多くの書を読んでいる。その中には先生の「世界国づくし」もあった。新しい文明の息吹を感じたことであろうか。

このように塚本一族は、定次から、また折には先生の謦咳に接する機会を得ることで新時代を知ったことが、今日迄事業の発展継承に繋がったことと確信する。それは数多くの残された資料がそれを物語っている。

 又定次に限らず近江商人は少なからず感化を享けたものと思われる。慶應義塾大学部創立に際しては、定次を始め塚本一族と共に、多くの近江出身の実業家が基本金を拠出した。

 終に先生が定次に与えた辞

  「積財如上山散財如下山熱界人多少誰能上下山」

 「天下布武」を唱えた織田信長の築いた安土城跡を隣に、佐々木六角の(キヌガサ)城の麓に塚本定次は眠っている。近江商人のアイデンティティの三方よしの心を常に抱いて。

*淡海女子実務学校・・・大正八年に滋賀県五個荘に近江商人の妻の教育機関として創設、初代塚本さと、二代目下田歌子校長である。

 

参考文献

西川俊作「近江商人と福澤諭吉」『三田評論』1994年8・9月号/山根秋乃「聚心庵の福澤資料」『福澤手帖』83号、1994年/西川俊作・山根秋乃「塚本定次-転換期の近江商人」『近代日本研究』12、1996年/塚本源三郎「紅屋三翁二媼」

滋賀県東近江市五個荘川並町にある塚本旧宅
(現ツカモトコーポレーション資料館「聚心庵」)

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