岡山県「犬養毅」

国立国会図書館より

安政2(1855)年~昭和7(1932)年

経歴

政治家。慶應義塾出身者として初の首相。明治9年慶應義塾に入学。
昭和6年の慶應義塾での講演で、福澤諭吉は非常に「自由な頭」を持っており、その眼中には「貴賎貧富」という考えが一つもないと述べ、こうした「福澤先生の気風を保存したい」と語っている(『犬養木堂伝』上巻)。

安政2(1855)年、備中賀陽郡庭瀬(現岡山市庭瀬)に庄屋の二男として生まれる。

明治8(1875)年に上京、翌年3月慶應義塾に入学した。入学時の保証人を『郵便報知新聞』論説記者の藤田茂吉が務めた縁か、在学中から同紙に寄稿し、西南戦争時は従軍記者として「戦地直報」を執筆し名を挙げたが、福澤諭吉からは「お前は鉄砲玉がどこまで届くということを知っているか。危いところへ行くのは馬鹿馬鹿しいではないか。なぜ塾にいて勉強しないのか」とひどく叱られた。成績は優秀で、漢学や英学は得意だったが、数学や簿記には関心がなく、卒業目前の13年に本人の弁によれば、得意だった『読書』で1位になれなかったことで自尊心が傷つき学校へ行かなくなったという。

23年、帝国議会開設に伴う第1回衆議院選挙に岡山3区から立候補し当選。以来、連続19回当選し、政党政治の確立に尽力した。その間、明治31年大隈内閣の文部大臣をはじめとして、文部、逓信大臣などを歴任。大正14(1925)年普通選挙法が公布されると、自分の役目は終わったと政界引退を表明したが、急死した田中義一政友会総裁の後任として、昭和6(1931)年12月に第29代総理大臣となった。満州事変など軍部の独走に歯止めをかけようとしたが、「俯仰の感」に堪えないと祝辞を述べた慶應義塾創立75年記念式典の6日後、昭和7年5月15日に、「まあ待て、話を聞こう」という言葉もむなしく、永田町首相官邸で海軍青年将校の凶弾に倒れた。

 

参考文献

『福澤諭吉事典』/『慶應義塾史事典』/『三田評論』2011年3月号/小林惟司『犬養毅 : 党派に殉ぜず、国家に殉ず』ミネルヴァ書房 2009年/木堂先生伝記刊行会編『犬養木堂伝 上巻』1938年

慶應義塾創立75年記念式祝辞

三田大講堂で祝辞を読み上げる犬養毅

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