広島県「福山藩の教育改革」
福山藩の重臣であった岡田吉顕は、明治維新後の藩政改革の中で、学制論なる教育改革論をまとめている。漢文による教育は難解であり、仮名を用いることによって平易化しようとするものであった。しかし、それが適切であるか否か確信がなく、まだ新銭座にあった慶應義塾に福澤諭吉を訪ね相談した。福澤はさらに医師のヘボンに相談し、その結果両者ともにこの改革案には賛成であった。ヘボンはその際、中国と日本で西欧文明の受容に速度差があるのは、中国の文章が難しく、他方日本には仮名があるためと考えられるからと語ったという。
岡田は、福山藩における普通学課の教科書を、すべて漢字仮名交じり文とし、新たに加える究理(物理)、地理、その他の分は、福澤の門下生に翻訳を依頼した。さらに福澤には仮名引きの国語辞典の編纂を依頼した。小林義直にあてた岡田の書簡によれば、福澤が5年間辞典編纂に専従できるよう、生活費を福山藩から支給する契約を結んでいる。明治3年12月26日付で福澤が、福山藩大属で学校幹事も務めた横山彦三ほかにあてた手紙によれば、中津に母を迎えに行った帰路、靭津滞在中に福山阿部家を訪れた。その時にはすでに語彙の蒐集を開始し、岡田に草稿を見せたようである。福澤家に保存されていた、表紙に「明治ニ己巳正月ヨリ」とある備忘録には、辞典の項目名がイロハ別に列挙されている。石河幹明『福澤諭吉伝』によれば、編纂は思いの外の大変な事業で、福澤もやや閉口した。 しかしこの計画は、明治4年7月の廃藩置県により、残念ながら実現はしなかった。
参考文献
岡田純次郎編集・発行『岡田吉顕之伝』、1935年/『福澤諭吉書簡集』第1巻/『福澤諭吉伝』第2巻/『福澤諭吉全集』第21巻
岡田吉顕肖像写真(明治10年法官時代、『岡田吉顕之伝』より)
福澤諭吉明治二年以降の備忘録(福澤研究センター蔵)